ありがとうモンテディオ


サッカー好きの皆さんこんばんわ。
あの衝撃だったJ2最終節から2週間が過ぎました。

「2001年11月18日は山形に本当のプロチームが生れた歴史的な日」
と自分は勝手に思っています。

今、冷静に思い返して見ると、いろいろな事が走馬灯のように巡ってきます。

トランス状態の私から4夜連続(笑)でお送りします・・・・


1990年
・・・・記憶は11年前に遡る。

1990年4月 私は、新聞の片隅に「NEC山形サッカー部 東北社会人リーグ入りを目指す」という小さな記事を見つけた。
国体を2年後に控え、各企業が各種競技の強化に力を入れている時期だった。

女子6人制バレーボールの東北パイオニア(現在のパイオニアレッドウイングス)、女子9人制のしあわせ銀行、女子バスケットボールの山形銀行、ソフトボールの県庁などもそうだった。

その時は「ふぅ〜ん、国体終了と同時に泡と消えるサッカーの強化企業か。」くらいの感想だった。

ちなみにその時東北リーグ入りを目指していたのは、NEC山形のほかに宮城県の東北電力(現ベガルタ仙台)などもあった。

その後、東北リーグ入りしたNECは、国体が終わってもリーグに留まっていた。多くの強化チームが泡と消えていく中で。

やがて、チームに広沢というストライカーがいることとかミョンギとかギョンギとか舌の噛みそうな韓国人プレイヤーが頑張っていることを知った。

チームも東北の上位で戦っていた。私も次第に熱く応援するようになった。

1995年
やがて、Jリーグがスタートし、下部リーグとしてJFLができたが、なんとNEC山形は94年それに昇格していた。

俄然応援するようになった。

ところが、95年に監督が石崎という東芝で現役していたという無名の小柄な男に代わった。
その頃まだJFLでのチームはあまり成績がよくなく、「よく、山形の監督を引き受けてくれたなぁ。」というのが感想だった。

しかし、その後チームは、アンジェロなどの外国人の活躍で次第に中位までくるようになった。

その頃、JFLでは柏レイソルとかセレッソ大阪、ヴィッセル神戸、コンサドーレ札幌とか一緒に戦っていて、県の野球場で柏と試合をしたこともあった。
その時、柏にはあのカレカとかなんと柱谷幸一現監督などもいた。

その頃から、モンテは結構上位には強いチームではあった。神戸とか札幌とかから勝った試合をテレビで見ることもあった。

1998年
・・・・・そして、衝撃の98年。

チームはスタートから快進撃を続け、折り返し時点では首位を独走していた。
私は、「まさかね」と思いながら、もし2位までならJリーグに昇格してしまう、と心配してしまうほどだった。(実際はスタジアムなどいろんな条件をクリアしないとダメだったのだが)

後半は、息切れをしてしまって結局シーズン終わってみると3位だったが、でも充分感銘を受けた。

選手では特にMFが強烈に印象が残っていて、ボランチにはJFL最強(他チームのサポの話だが)のシジクレイ(現神戸)、中盤は健二、佐藤由紀彦(現FC東京)、マルキーニョ(現新潟)という何をしでかすかわからない変幻自在なダイアモンドを形成し、今考えてもワクワクするような布陣だった。

その年の天皇杯は、リーグ戦の勢いで堂々とJのガンバを破り(由紀彦と庄司のゴール!途中でワールドユース帰りの稲本も強硬出場しハラハラさせられたが、なんとか逃げ切った)リーグ戦がフロックでないことを証明した。

ところが・・・事件は起こった。

選手からもサポからも絶大なる信頼を置かれていた石崎監督が大分に移籍。主力(シジクレイ、塩川、若松など)をごそっと道連れにするというおまけつきで。

裏切られた・・・と感じたサポーターは一斉に石崎バッシングに走った。それまで、神様みたいに拝めていたのに、「相手の長所をつぶすだけのネガティブサッカー」と彼を罵った。

そして、チームが見つけてきたベルマーレをクビになった植木監督を「元J監督」「中田を育てた監督」と最大限の賛辞を沿えて迎えた。

補強も、元ナイジェリア代表のムタイル、札幌のバウテル、平塚の岩元、横浜の平間、京都の吉田と「おいおい金は大丈夫か?」と思うほど豪華に写った。

1999年
そして99年のシーズン。初戦は仙台。
仙台は金に任せた補強が裏目に出て低迷していたチームで、悪いことにそれに輪をかけてチーム名の「ブランメル」の使用ができなくなり「ベガルタ」という、当時、コンサドーレ、サガンに次ぐバカ受けの名前になったチームだったが、なぜか山形には強いチームで、試合もいやなアウェーではあったが、なんと0−2から逆転で3−2で勝利。それで今年はもう優勝したような気分になった。

しかし、シーズンを終わってみると、7位。

モモ(ムタイル)ちゃんやバウテルがケガ気味で、なかなか調子に乗れなかったが、真下とか平間とか達磨とかそれなりに魅力のあるタレントがいた。個人的には好きなチームだった。

戦術についてシーズン途中に疑問を投げかける人々もいたが、サポーターの多くは「植木さんを信じましょう。憎きは石崎」みたいな調子だった。

ドキドキしたのは最終戦、対大分。
勝てば昇格の大分(しかも監督は石崎さん)を相手に観客14,000人のアウェーで根性の引き分け。
ネットのチャットで何度も更新ボタンを押しつづけながら、選手と一緒に戦った(笑)

・・・そして迎えた衝撃!の99年天皇杯。

初戦、ブレイズ熊本戦8−0で調子に乗ったチームは、3回戦でJ1神戸をPKの末破り、4回戦の相手はセレッソ大阪だった。

当時セレッソには得点王のファンソンフォン(現柏)とか西澤とかがおり、正直言ってさすがにこりゃダメだろうと思っていたが、なぜか彼らは出ていなかったようだ。

なめていたんだろう。

もしかしたらという気持ちになった。

試合開始と同時にまた、ネット速報で更新ボタンを押しつづけた。

いきなり健二が先制!そして、逆転されながらも卜部、モモちゃん(どちらもクビが決まっていた)が執念の同点ゴール!!

そして迎えた延長戦、ウッチーのVゴールボレー!!!

手が震えた。信じられない一瞬だった。

そして、J2から唯一!ベスト8に残っての準々決勝。

相手は、北嶋、加藤、大野がいる柏レイソル。

試合当日は実は娘のピアノの発表会の日であったが、私は、試合開始時間にあわせて、「テープを買いに行く」と発表会会場から電気屋へ。

そこで、店員を半ば恐喝してスカパーにチャンネルを合わせさせた。
あきれる店員。テレビの前を離れない客。至福のとき・・・

結果は0−2だった。でも、皆よくやった。解雇が決定し本国へ帰る予定を返上して出場したモモちゃんもバウテルも頑張った。涙が出た。

うつろな目でピアノ発表会場へ戻った。娘の順番は終わっていた・・・・

これで、植木イズムはチームに浸透したかに見えた。
私もサポーターも信頼しきっていた、と思う。

2000年
新しいチームになり、横浜から丸山、降格した湘南から哲平、甲府から岳也がきた。ブラジルからジェフェルソンという若者も来た。

春のキャンプは中国だった。さすが海外とは、植木さんやるなと思った。

プレシーズンマッチで仙台と引き分けた。「?」と思ったが、監督を信頼していた。

シーズンが始まった。初戦はアウェーで大分だった。1−3で完敗。新聞の論調は明らかに調整不足というものだった。

中国でのキャンプが悪天候のため、ほとんどトレーニングできなかったと聞いたのはそれから間もなくだった・・・

ホームでの初戦は、昇格したばかりの水戸。大雪の中での試合(ゴールラインが見えない・・)となったが(寒かった)、後半ズルズルと逆転負け。

「?」は唸りに変わっていった。

その後の試合振りは、昨年までのチームを知ってるだけに、目を被うばかりだった。

岳也のスピードが生かせず、FWはいるのかいないのかわからない状態で、健二の孤軍奮闘ばかりが目立った。
ディフェンスラインから中盤へのパスが通らない。通らないというよりは出しどころがないという感じで、横パス、バックパスを繰り返すだけという試合が続いた。

さすがに、サポーターもざわめき始めた。

チームもなんとかせねばと考えたのか、ないはずの財布を振って、元大分のエドウィンやV東京の永井の弟、永井篤志などを獲得した。

チームは、札幌にアウェーで0−2で勝ったり、レッズに初黒星をつけるなど、相変わらずの大物食いでスポット的に沸かせることはあっても、最後までサポーターの溜飲を下げることはできなかった。

シーズン中盤からは、サポーターからもモロに監督批判する意見が相次いだ。

あんなに三顧の礼で迎えたはずだった監督に手のひらを返したようなバッシングをしていいのかな?試合は選手がするものだし、批判されるのは選手なのではないかな?とも思ったが、改善されないチーム状態を見るに、やむを得ないのかなとも思った。

終盤、レッズにV勝ちしたり、またもや昇格寸前の大分に引き分けるなど、それなりの試合もあったが、シーズン終了を待たずに、監督の更迭が決まった。

しかし、私はひそかにシーズンの終わりを待っていた。
なぜなら、天皇杯が待っていたからである。

2年連続でJ1を破ったという実績は、シーズンの不調のせいもあって、自分の中で「このチームは天皇杯のためにあるんだ」という気持ちを増殖させ、期待で胸がいっぱいになっていた。

案の定、天皇杯1回戦は12−0で大勝(高校生相手だったけど、ちなみに仙台は1回戦大学に負けていた・・・)。

2回戦はJFLのジャトコでこれも3回戦のための肩鳴らしぐらいに思っていた。しかもなんと、ジャトコ戦はBSで録画放送があるということだった。ラッキー。

2回戦はなぜか韓国で?見ていた。

職場旅行で来ていたのだが、韓国でBSは見れることがわかり、眞露飲みながら夜中に応援していた。

結果は、負けだった。完敗。

シーズンと同じように、相手の厳しいマークにパスがつながらず、カウンターを食らうという、絵に書いたような負けパターンだった。

・・・次期監督が誰かも含めて、暗黒の時代がきたのかなと肩を落とした。

2001年
・・・2000年冬

次期監督については、シーズン中の噂どおり、柱谷幸一さんだった。
解説では何度もお見かけしており、やさしい語り口は弟哲二よりも好きだった。

でも、有名人を連れてくるというのは、植木さんの例もあり自分的には疑問もあった。

また、ベガサポのHPには、仙台にも柱谷さんが売り込みに来たが、相手にしなかったという書き込みもあった。実績ないし、上昇志向が強すぎると・・・(汗)

就任の時のインタビューは新鮮に写った。
今はやりの「情報公開」とか、プレッシングサッカーとかいう響きが気持ちよかったが、何しろ実績が無いというのが最大の不安だった。(ミスター長嶋の1年目のように・・・)

でも、次第に「これは!」と感じるようになった。

それは、チームの弱点を的確に把握し、それを補う補強をしたと発表してからだ。

確かに、これまで左サイドは太田と健二がやっていたが、そもそも2人とも右利きだから無理があるなとは皆感じていたはずだ。

レフティーが3人入ってきた。
外国人を獲得しないというのはやはりちょっと不安だったが。
選手は無名だったが、監督の自信が、少しずつ安心感をもたらすようになった。

千葉でのキャンプの様子もHPで見れるようになった。
トレーニングは順調との事。昨年のことがあるのでホッとした。

しかし・・・

最初の練習試合で、市立船橋高(高校生!)に負けた・・・あれ?おいおい。
他チームのHPでも嘲笑されていた。ちょっと、ちょっと。

でも、練習試合は特別の目的をもってやっている(船橋の時はワンタッチが原則だった)とのことを知って、また、その後の試合は順調に勝ってきたこともあって、気持ちを持ち直すことが出来た。

レッズから勝った試合では、レッズHPで、「今年の山形は絶対に強い」と太鼓判を押されていた。嬉しかった。

そして、シーズンが始まった。

今シーズンの開幕戦はアウェーでの京都戦。J1降格チームといきなり・・・イジメか・・・

自分なりには負けは覚悟していた。
昨年のこともあって、できればホーム開幕戦まで5割できてくれれば、なんて甘い考えを持っていた。

ところが、ネットで速報を見てみると、いきなり渡辺卓がヘッドでゴール!

おいおい・・・

その後1点ずつとって、後半ロスタイム・・・おいおい勝っちゃうのか?翌日の新聞の「大番狂わせ」の文字が浮かんだ。

しかし、現実は甘くなく、ロスタイムに朴智星(韓国代表だよ)に同点にされるも、延長粘ってなんと引き分け!

・・・開幕戦だけで、もう今シーズンはありがとう、という感じだった。

しかしその後も、私の期待を裏切り、優勝候補の大宮には勝つわで無敗のままホーム開幕へ。
相手は水戸。昨年は、このチームに負けておかしくなった。

しかし、今年は違っていた。

開始早々、岳也(だったかキングだったか)のゴールで先制すると、結局3−0で完勝。

強いチームが戻ってきた。

その後川崎、湘南に力負けするも、上位にも堂々の試合で、特に仙台戦は0−2から同点、延長もウッチーの幻のオーバーヘッドもあり(今考えると、なんであれが反則で、大分最終戦のキングのオーバーヘッドはVゴールなの?)、押し気味の引き分けだった。

まさかの快進撃に、雲の上を歩いているような気分だったが、
このチームが本当に強いと確信したのはナビスコ杯でのレッズ戦だった。

ホームで2−0完勝し、アウェーでは、守りたくなるところを攻めつづけて0−3で負けるも(写らないwowwowで応援していた)、気持ちのいい試合っぷりだった。

その後、第2クールでは4連敗もあったものの、
第3クール以降の快進撃は昨年の溜飲を下げて余りあるものがあった。ついに仙台には勝てなかったけど・・・

第4クールに入って、快進撃に拍車がかかりながら終盤に近づくにつれ、終わりの数試合は上位との対戦であることがわかった。

正直、「今年はいい夢見せてもらったよ。山形らしい試合で気持ちよく負けてくれ(自虐的・・・阪神ファンなもんで)」と思っていた。
もうおつりは充分もらっている。

案の定、ここにだけは負けて欲しくない大一番の仙台戦は、ホームで0−2の完敗(芋煮会をしながら携帯で確認していた私はバカ)。
勝ってれば昇格も意識したところだが、これで安心して往生できると思っていた。

しかし、しかしチームはゾンビのごとく蘇る。

その後の上位との対戦も負けないのだ。
大分にはキングのオーバーヘッドVゴール、京都には押し捲られながらも引き分け、大宮には終了直前にワッシーのヘッドで引導を渡し、新潟戦は寒い雨の中よっくんのヘッドでVゴール勝ち。

このあたりになると、山の神だけに神がかりになってくる。

そして、あの最終戦・・・

それなりに、盛り上がりは感じていたものの、当日、会場周辺に来ると異様な光景が目に入った。

え?バックスタンドが満席だ。

入口を入って、メインスタンドを見ると、はぁ?すでに立ち見になっている。

5分前に来た私もバカだが、結局電光掲示板下でなんとか座ることが出来た。
満員だ。しかも、会場周辺には入れない人もいると聞いた。

席に座って会場を見渡した時、
すでに、私の心の涙腺はブチ切れていた。

今日の17,000人は山形の歴史を目撃するんだと確信した。

正直言って、勝敗を超えたところに私の意識はあった。
昇格のかかった試合を見ているということよりも、17,000人が試合を見ていることに感動してしまった。

関係ないが、私の後ろの席ではさくらんぼテレビの対馬アナ親子が応援していた。
一般席で応援していることになぜか感銘した。

その試合も、よくも悪くも山形らしい試合だった。
中盤を完全に支配してフィニッシュまでいくが決定力が無い。
段々、フィニッシュまでの形も正確性を欠いてくる。

ただ、ここ数試合は、後半かならずゴールの臭いがしてきたが、
その日はその臭いがしなかった。

後半終了と同時に、周りの携帯に「仙台勝つ」の情報が・・・

夢は現実に引き戻された。

・・・それからの監督続投に向けた盛り上がりは凄かった。

でも、正直、監督が残る確立は半分以下だと思った。
なぜなら、ノーマークの今年よりも来年の方が山形は絶対厳しいからだ。

今年をステップに来年J1監督というのが常識ではないかと思った。

しかし、ドラマは終わらなかった。
監督は続投した。

9日の日曜日、山形の天皇杯が終わった。
ヴィッセル神戸に0−1。中盤で頑張るも決定力がなく・・・

この試合もまた山形らしい試合で、そういう意味では、
今年は「らしさ」を初志貫徹できたのかもしれない。
1戦、2戦を見た感じでは、リーグ戦で燃え尽き症候群になってしまったのかなぁと思っていたので、やむを得ないのかなとも思った。

もちろん、天皇杯崇拝者の私は、今年も何とかJ1を3つ位破って欲しかった思っていた。
でも、実は、今年はもう少し腰が据わっている。

来年はJ1に行けなくとも柱谷イズムをチームに植え付けなければという気持ちが、天皇杯というお祭り騒ぎを超えているのだ。

来年が、チームの正念場となる。